「すれ違った時にいい匂い」の正体|香りの航跡「シアージュ(Sillage)」と分子の重さ
すれ違ったあと、ふわっと残るいい匂い。振り返っても、もうその人はいないのに、香りだけが空気の中にとどまっている。香水好きはこの現象にシアージュという名前をつけています。この記事では、その香りの「航跡」がどうやってできるのかを、分子の重さから見ていきます。
2026.10.23 · 5分で読めます

シアージュとは?フランス語で「船の航跡」を意味する香水用語
シアージュ(sillage)は、フランス語で船が水面に残していく航跡のこと。「〜の後に続いて」という意味の言い回し dans le sillage de にも使われる、ごくふつうの言葉です。香水の世界ではこれを借りて、香水をつけた人が通ったあとに残る香りの跡をシアージュと呼びます。英語でもフランス語からそのまま取り入れられています。
ここで大事なのは、シアージュが「強さ」そのものとは少し違うということです。肌の近くでどれだけ強く香るかと、通り過ぎたあとの空気にどれだけ残るかは、別の性質。鼻を近づけると濃いのに、空気にはあまり残らない香水もあれば、肌ではかすかなのに、部屋に入ると「あ、来ていたんだ」とわかる香水もあります。
その違いを生む大きな要素が、香りの分子の揮発のしかたです。
なぜ香りは空気に残る?蒸気圧と分子の重さで決まる「揮発」
液体が気体になりやすいかどうかを、化学では揮発性といいます。蒸気圧が高いものほど揮発しやすく、沸点が高いものほど揮発しにくい。そして一般に、分子が重く大きくなるほど揮発しにくくなります。大きな分子ほど、分子どうしで引き合う力がはたらきやすいからです。
香水のピラミッドも、この性質で説明できます。つけた瞬間に香るトップノートは、小さく軽い分子でできていて、すぐに蒸発します。ミントやラベンダー、シトラスが代表です。香りの本体になるミドルノートをはさんで、ベースノートはたいてい、つけてから30分ほどたってようやく感じられる、重く深い香り。タバコ、アンバー、ムスクなどがそうです。
香りの分子の重さ(分子量)の目安
| 分子 | 香り | 分子量 |
|---|---|---|
| リモネン | 柑橘の皮(トップ) | 136 |
| ヘディオン | 透明なジャスミン | 226 |
| イソ E スーパー | ベルベットのようなウッディ | 234 |
| アンブロキサン(アンブロキシド) | アンバーグリス調 | 236 |
| ムスコン | ムスク | 238 |
数字の差は小さく見えますが、揮発のしかたには大きく効きます。軽い分子は勢いよく広がるかわりに、早く消えてしまう。重い分子は少しずつ、長い時間をかけて肌や服から放たれる。つけてから時間がたった人が通り過ぎたとき、空気に残っている航跡の多くは、この重い側の分子がつくっていると考えられます。ゆっくり蒸発する成分は、肌の上に何週間も残ることさえあります。
ムスク、アンブロキサン、イソ E スーパーが「すれ違い」系の香水によく使われるのは、このためです。イソ E スーパーが「自分では匂わないのに周りが振り返る」といわれる話は、イソ E スーパーのコラムにまとめています。
ヘディオンとは?香りに「透明な広がり」を与えたジャスミンの分子
シアージュの話でよく名前が挙がるのが、[ヘディオン](/notes/hedione)(ジヒドロジャスモン酸メチル)です。1957年から1962年にかけて、スイスの香料会社フィルメニッヒの化学者エドゥアール・ドゥモールが、ジャスミンのアブソリュートの中に0.8%含まれるこの成分を突きとめ、合成しました。
ヘディオンを使って最初に商業的な成功をおさめた香水は、エドモン・ルドニツカがディオールのために手がけ、1966年に発売されたオー ソバージュです。柑橘を中心にした古典的な構成にヘディオンを加えると、直接的に花っぽくはならないまま、露をふくんだようなレモンとジャスミンの広がりが生まれました。これが、香水が透明感と広がりを求める流れの始まりになったといわれます。
ヘディオンには、ほかの多くの香りとは違う面もあります。人の鼻の粘膜にある VN1R1 という受容体にはたらくことが知られていて、2015年の研究では、ヘディオンを嗅いだときの脳の反応を fMRI で調べ、一般的な花の香りの成分と比べて、扁桃体や海馬などの活動が大きかったと報告されています。ただし、これは脳の反応を調べた研究で、「ヘディオンをつければ好かれる」といった効果を示したものではありません。
ヘディオンが見つかったジャスミンの産地については、グラースのジャスミンで詳しく書いています。
すれ違った時にいい匂いにするには?シアージュを生かすつけ方
シアージュは、香りの素材だけでなく、つけ方でも変わります。香りは体温で温められて立ちのぼるので、体の中心に近い場所や、動くたびに空気が動く場所につけると、通ったあとに香りが残りやすくなります。くわしい場所とタイミングはすれ違った時にふわっと香る付け方にまとめました。
気をつけたいのは、シアージュが大きい香水ほど、つけすぎたときの影響も大きいことです。自分の鼻はすぐに香りに慣れてしまうので、「消えた」と思っても周りにはまだ届いています(鼻慣れのしくみ)。濃度の違いも目安になります。一般にオードパルファムは香料が15〜20%、オードトワレは5〜15%。持続の目安は香水の持続時間チェッカーでも確かめられます。
空気に残る「すれ違い」系の香水
エセントリック・モレキュールズのエセントリック 03と、アクア ディ パルマのブォンジョルノ ドルチェ ファール ニエンテは、ノートにヘディオンを含む香水。ル ラボのアナザー 13はアンブロキサンを、モレキュール 01はムスクとウッディを軸にした、肌に近い香りです。
まとめ
- シアージュはフランス語で「船の航跡」。香水では、通ったあとに残る香りの跡
- 分子が重いほど揮発しにくく、長く残る。トップは軽く、ベースは重い
- ムスク・アンブロキサン・イソ E スーパーは分子量230台の「残る」素材
- ヘディオンは1966年のオー ソバージュで成功し、香水に透明な広がりをもたらした
- シアージュが大きい香水ほど、つけすぎに注意。自分の鼻はすぐ慣れる
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出典(9)
- Wiktionary(英語版)「sillage」
- Wikipedia(英語版)「Perfume」
- Wikipedia(英語版)「Volatility (chemistry)」
- Wikipedia(英語版)「Limonene」
- Wikipedia(英語版)「Methyl dihydrojasmonate(Hedione)」
- PubMed「The smelling of Hedione results in sex-differentiated human brain activity(Wallrabenstein ほか, NeuroImage, 2015)」
- Wikipedia(英語版)「Iso E Super」
- Wikipedia(英語版)「Ambroxide」
- Wikipedia(英語版)「Muscone」





