なぜ「雨上がりの匂い」は心を落ち着かせるのか?ペトリコール・ゲオスミンと雨の香水
夕立のあと、窓を開けると立ちのぼる、あの土っぽくて少し甘い匂い。誰もが知っているのに、正体を説明できる人はあまりいません。じつはこの匂いには名前があり、主役の分子もわかっています。そして香水の世界には、その匂いを瓶に閉じこめようとしてきた歴史があります。
2026.10.23 · 6分で読めます

ペトリコールとは?1964年『ネイチャー』が名づけた「石の血」
雨上がりの匂いは、英語でペトリコール(petrichor)と呼ばれます。名づけたのは、オーストラリアの研究機関 CSIRO の研究者イザベル・ジョイ・ベアとリチャード・グレンフェル・トーマス。1964年3月、科学誌『ネイチャー』に「Nature of Argillaceous Odour(粘土質のにおいの正体)」という論文を発表しました。
言葉の成り立ちは詩的です。ギリシア語の「ペトラ(岩・石)」と、ギリシア神話で神々の血管を流れる金色の霊液「イコル」。直訳すれば「石の血」です。
ふたりが調べたのは、乾いた暑い時期にさらされた岩でした。その岩を水蒸気で蒸留すると、黄色みを帯びた油が取り出せたのです。乾いた時期に植物から出た油が粘土質の土や岩にしみ込み、湿り気を受けて空気中に放たれる。これが雨の匂いの一部だと考えられました。
じつはこの匂い、論文より前から香りとして商品になっていました。インドの香りの町カナウジでつくられるミッティ・アッタールです。焼いた土を白檀油の上で蒸留してつくる「土の香油」で、降りはじめの雨の匂いに似ているといわれます(カナウジのアッタール)。
ゲオスミンとは?人の鼻が「1兆分の数」でも気づく土の分子
雨の匂いのもうひとつの主役が、ゲオスミン(geosmin)です。名前はギリシア語の「ゲオ(大地)」と「オスメー(におい)」から。1965年に、アメリカの生化学者ナンシー・ガーバーとフランス系アメリカ人の生物学者ユベール・ルシュバリエが名づけました。
ゲオスミンをつくるのは、土の中にすむ放線菌(ストレプトマイセス属)や、シアノバクテリア(藍藻)などの微生物です。ビーツの土っぽい味もゲオスミンによるもので、ビーツの場合は微生物ではなく植物自身がつくっています。水道水やコイ・ナマズなど淡水魚の「泥くささ」の原因になることもありますが、人には無毒とされています。
驚くべきは、人の鼻の感度です。ゲオスミンのにおいに気づける濃さは、水1リットルあたり0.006〜0.01マイクログラムほど。資料によっては、空気や水の中で1兆分の400〜1兆分の5(400〜5ppt)という値も挙げられています。人の鼻がとらえられる物質のなかでも、ずば抜けて少ない量です。
なぜ人の鼻はゲオスミンに敏感なのか
その理由ははっきりわかっていません。よく知られているのは、乏しい水を探すのに役立ったために、人やその祖先がゲオスミンに敏感になったという説です。ただし、Wikipedia 英語版のゲオスミンの項でも「結論は出ていない」と書かれており、あくまで仮説です。
一方、人以外の生き物については、はっきりした研究があります。2020年に『ネイチャー・マイクロバイオロジー』に載った研究では、放線菌が胞子をつくる段階でゲオスミンなどを出し、そのにおいに土の小さな節足動物トビムシが引き寄せられることが示されました。トビムシは菌を食べながら、体やフンにつけた胞子を別の場所へ運びます。においが、菌と虫の双方に得になる関係を結んでいると考えられているのです。
雨の匂いはどうやって鼻に届く?雨粒の泡と雷雨のオゾン
土の中にある匂いの分子が、なぜ雨のときにだけ鼻に届くのでしょう。2015年、マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者ヤン・スー・ジョンとカレン・ビュイーが、ひとつの答えを示しました。
ふたりは高速カメラを使い、28種類の表面(人工の素材12種と土16種)で約600回の実験をしました。すると、雨粒がすきまの多い地面に当たった瞬間、すきまの空気が小さな泡になって雨粒の中をのぼり、表面ではじけて、細かな粒(エアロゾル)を空中に飛ばすことがわかったのです。激しい雨より、弱い雨やほどほどの雨のほうが多くのエアロゾルを出しました。研究者は、雨の匂いが空気に運ばれるのはこのしくみによるのではないか、という仮説を述べています。
雨の「前」に感じる匂いもあります。雷が近いときの、つんとした金属っぽい匂い。これはオゾンです。1839年にこの気体を取り出したクリスチャン・フリードリヒ・シェーンバインは、雷のあとによく感じる匂いだと気づき、ギリシア語の「オゼイン(におう)」から名前をつけました。オゾンの匂いは塩素系の漂白剤に少し似ているといわれます。
雨にまつわる3つの匂い
| 匂い | 正体 | 感じるタイミング |
|---|---|---|
| オゾン | 雷などでできる気体 | 雷雨の前後。つんと乾いた匂い |
| ペトリコール | 乾いた時期に土や岩にしみ込んだ油 | 降りはじめ。乾いた地面がぬれたとき |
| ゲオスミン | 放線菌などがつくる分子 | 雨のあと。湿った土の匂い |
雨の香水とは?ベチバー・パチョリで描く「湿った土」
香水で雨を表すとき、調香師が手にする素材はおおむね2つの方向に分かれます。ひとつは湿った土。根から取るベチバーや、湿った森の土を思わせるパチョリ、そのものずばりのアースノートです。ベチバーはインドで「クス」と呼ばれ、夏にぬらしたすだれとして涼を取るのにも使われてきました(ベチバーの話)。
もうひとつは空気と水。雷雨のあとの澄んだ空気を思わせるオゾンノートや、水を感じさせるアクア系の香りです。そして最近では、ゲオスミンそのものをノートに掲げる香水もあります。
雨と土を描いた香水
メゾン マルジェラのレプリカ ウェン ザ レイン ストップスは、水のノートにパチョリやモスを重ねた雨上がりの香り。エタ リーブル ドランジュの「エルマン ア メ コテ ム パレセ ユヌ オンブル」はノートにゲオスミンを含み、ベチバーやパチョリとともに土の気配をはっきりと出します。
「心が落ち着く」のはなぜ?
タイトルの問いに、正直に答えておきます。雨上がりの匂いが人の気持ちをどう動かすかについて、はっきりした科学的な結論は、今回調べた範囲では見つかりませんでした。好きな人が多いのは確かですが、それが水を探した祖先の名残なのか、子どものころの雨の日の記憶なのかは、わかっていません。だからこそ、自分にとっての雨の匂いを香水で探してみる楽しみがあります。
土っぽい香りは、つけすぎると重く感じやすい系統です。はじめは1〜2プッシュから試し、香水のつけ方も参考にしてください。
まとめ
- 雨の匂い「ペトリコール」は1964年にベアとトーマスが『ネイチャー』で名づけた
- 土の匂いの主役ゲオスミンは放線菌などがつくり、人は数ppt〜数百pptでも気づく
- 人がゲオスミンに敏感な理由は「水を探すため」という仮説があるが結論は出ていない
- 雨粒が地面に当たるとできる泡が、匂いを空気に運ぶという研究がある(MIT, 2015)
- 香水ではベチバー・パチョリ・アース・オゾンノート、そしてゲオスミンで雨を描く
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出典(10)
- Wikipedia(英語版)「Petrichor」
- Nature「Nature of Argillaceous Odour(Bear & Thomas, Nature 201, 993〜995, 1964)」
- Wikipedia(英語版)「Geosmin」
- Nature Microbiology「Developmentally regulated volatiles geosmin and 2-methylisoborneol attract a soil arthropod to Streptomyces bacteria promoting spore dispersal(Becher ほか, Nature Microbiology 5, 821〜829, 2020)」
- Lund University「The story behind the earthy smell of spring」
- MIT News「Rainfall can release aerosols, study finds(2015年1月)」
- DSpace@MIT「Aerosol generation by raindrop impact on soil(Joung & Buie, Nature Communications 6, 6083, 2015)」
- Wikipedia(英語版)「Ozone」
- Wikipedia(英語版)「Attar」
- Wikipedia(英語版)「Chrysopogon zizanioides (Vetiver)」





