なぜ香りは数値で表せない?色と違う、嗅覚の5つの壁
画面の色は、赤・緑・青の3つの数字で表せます。音の高さも、周波数というひとつの数字で決まります。では香りは?「甘さ7、ウッディ5、持続4」のように数字を並べれば、香水を正確に表せるでしょうか。答えは、少なくとも今のところ「できない」です。その理由を、嗅覚の研究から5つの壁に分けて見ていきます。
2026.10.24 · 8分で読めます

色や音には「軸」がある。香りには見つかっていない
色を見分ける細胞は、目の中に3種類しかありません。だから色は、3つの軸を持つ空間にほぼ並べられます。音の高さは、空気の振動の速さ(周波数)が上がるほど高く聞こえる、という素直な関係です。
香りはどうでしょう。2023年に『サイエンス』に載った匂いの地図の論文は、序論でこう書いています。視覚では波長が色に、聴覚では周波数が音の高さに対応する。ところが匂いの知覚と分子の構造の関係は「不連続だらけ」だ、と。分子の形が少し似ていても、匂いが似るとは限らないのです。
壁1:受容体は約400種類、組み合わせで匂いを表す
色の受容体が3種類なのに対し、人の鼻には、においの分子を受け取る嗅覚受容体がおよそ400種類あります(数え方で変わり、2004年の論文は働く遺伝子を339個と数えています)。
しかも、1つの受容体が1つの匂いを担当しているわけではありません。1999年に、のちにノーベル賞を受けるリンダ・バックらがマウスで調べたところ、1つの受容体は複数の匂い分子を受け取り、1つの匂い分子も複数の受容体に受け取られていました。匂いの違いは「どの受容体の組み合わせが働いたか」で表されているのです。ノーベル財団はこれを、色のパッチワークのような「匂いのパターン」と説明しています(香りと記憶の話)。
400の部品の組み合わせは、3つの数字では表しきれません。これが最初の壁です。
壁2:同じ分子でも、濃さで香りの「質」が変わる
色なら、薄めても赤は薄い赤のままです。ところが香りでは、濃さを変えると性格そのものが変わることがあります。2003年のオーストラリアの研究では、5種類の匂い分子を、それぞれの人がぎりぎり感じられる濃さからその729倍まで7段階で嗅いでもらい、146の言葉から当てはまるものを選んでもらいました。すると5種類のうち4種類で、濃さによって香りの質が変わりました。
よく知られる例が、ジャスミンの花にも含まれるインドールです。英国王立化学会の教育用資料は、インドールが濃いと糞便のような、薄いと花のような匂いがすることで有名だと紹介しています。1999年のバックらの論文も、濃度を変えると受容体の組み合わせが変わりうることが、香りの質の変化を説明できるかもしれない、と書いています。
つまり「インドール=花の香り」と1つの値を付けても、濃さが変われば当てはまりません。香水が「トップ・ミドル・ラスト」と時間とともに表情を変えるのも、成分ごとに蒸発の速さが違い、肌の上で濃さの比率が変わっていくからです。
壁3:混ぜると、成分がわからなくなる
香水は、数十から数百の成分を混ぜてつくります。では、人は混ぜたものの中身をどこまで嗅ぎ分けられるのでしょう。1989年の研究では、123人に1〜5種類の匂いを混ぜたものを嗅いでもらい、成分を当ててもらいました。ありふれた、互いに似ていない匂いだったのに、混ぜたものの成分を正しく当てられた人はわずかでした。
その後の研究でも、人が混ざった匂いの成分を見分けられるのは3〜4種類が限界とされています。訓練した人でも、強さをそろえた16種類の中から知っている1つを探す課題では、当たる確率が偶然と変わらなくなりました。混ざった香りは、成分の足し算ではなく、ひとつの新しい香りとして感じられる、と研究者は考えています。
2012年のイスラエルの研究は、さらに驚く結果を出しました。86種類の分子を強さをそろえて薄め、いろいろな組み合わせで混ぜると、共通の成分がひとつもないのに、混ぜる数が増えるほど混合物同士が似てきたのです。約30成分になると、ほとんどの混合物が同じような匂いになりました。研究者はこれを、すべての色の光を混ぜると白になることにたとえて嗅覚の白と名づけました。
ただし、この「白」が起きたのは、成分が匂いの空間に広く散らばり、強さがそろっているときです。香水の成分は種類も強さも偏っているので、成分が多いだけで白くなるわけではないと考えられます(推測)。いずれにしても、成分表の数字を並べても、混ぜたあとの香りは予測できません。
壁4:分子の形から、匂いを予測しにくい
分子の構造がわかれば匂いもわかる、と考えたくなります。けれど有名な反例があります。カルボンという分子には、右手と左手のように鏡に映した関係の2つの形があります。成分も結びつき方も同じなのに、片方はスペアミントの、もう片方はキャラウェイ(ライ麦パンに入っている種)の匂いの成分です。1971年の『サイエンス』の論文で、その違いがはっきり示されました。
香料会社の化学者チャールズ・セルは2006年の論文で、構造と匂いの関係は100年以上研究されてきたが、新しい分子の匂いの予測はいまも確率を出すだけの作業で、新しい香料の発見には偶然がいまも大きい、と書いています。合成香料のイソ E スーパーも、売られている原料のうち香りの主役はごく一部の形の分子だとされ、分子と匂いの関係の一筋縄でいかなさを示しています。
壁5:同じ分子でも、人と言葉で感じ方が変わる
色の見え方にも個人差はありますが、香りの個人差はもっと大きいかもしれません。2014年の研究によると、受容体の遺伝子には一人ひとり違いがあり、任意の2人を比べると、平均して受容体の30%以上で働きが違っていました。
有名なのが、男性ホルモンのテストステロンからできるステロイドの一種アンドロステノンです。人によって「汗くさい、尿のよう」と感じたり、「甘い、花のよう」と感じたり、まったく匂わなかったりします。2007年の研究で、その違いの一部が、OR7D4 という1つの受容体の遺伝子の違いで説明できることがわかりました。ただし、332人を調べた2019年の研究では、遺伝子・祖先・年齢・性別を合わせても、香りの感じ方のばらつきの10〜20%ほどしか説明できませんでした。
言葉も感じ方を変えます。2005年のオックスフォード大学などの研究では、チーズのような匂いを嗅いでもらうとき、画面に「チェダーチーズ」と出すか「体臭」と出すかで、同じ匂いの快さの評価が変わり、脳の反応も変わりました。名前ひとつで評価が動くなら、香りに付ける数字も、それを感じる人と状況から切り離せません(香水と脳の研究)。
AI は香りの地図をつくれるか
それでも、香りを数字で予測する研究は大きく進んでいます。2017年には、49人が476種類の分子を評価したデータをもとに、世界中のチームが予測を競いました。強さと快さはよく予測でき、19の言葉のうち8つ(ニンニク、魚、甘い、果物、焦げた、スパイス、花、酸っぱい)を予測できました。ただし、個人の感じ方の予測は、集団の平均の予測よりずっと難しいという結果でした。
2023年には、グーグルの研究チームなどが、約5,000の分子で学習した人工知能で「主要な匂いの地図」をつくり、新しい分子の匂いを55の言葉で予測しました。新しい分子で確かめると、分子の約半分で、モデルの予測は評価パネルの真ん中くらいの人の答えよりも、パネル全体の平均に近いものでした。人の評価者と同じくらい信頼できる、と論文はまとめています。
ところが、この論文自身が限界をはっきり書いています。濃さは地図に含まれていない。混ぜたときにどうなるかの指針はない。個人差は扱っていない。つまり、ここまで見てきた壁2・3・5は、最新の研究でもまだ越えられていないのです。
ちなみに「人は1兆種類の匂いを嗅ぎ分けられる」という話を聞いたことがあるかもしれません。2014年の『サイエンス』の論文が出した数字ですが、翌年に別の研究者2組が、推定の計算方法に問題があると批判する論文を出しています。人が嗅ぎ分けられる匂いの数は、まだわかっていない、というのが正確なところです。
だから、香りは言葉と投票で伝える
香りを数字1つや数個の軸に落とせないなら、どう伝えればよいでしょう。このサイトでは、ひとつの数字にまとめるかわりに、いくつもの角度から香りを描くようにしています。
ひとつはノート(香水を形づくる香りの要素)です。公式の情報をもとに、トップ・ミドル・ベースの順に、どんな素材が使われているかを載せています。さらにノートを、ウッディ・シトラス・ムスクなど16の素材の系統に分けて、系統から探せるようにしています。もうひとつは、香りを嗅いだ人の投票です。持続や拡散、季節や時間帯の印象を、何人もの感じ方の分布として集めます。
香りは、分子だけでなく、濃さと混ざり方と、嗅ぐ人と言葉で決まります。だから一人の評価や一つの数字ではなく、たくさんの言葉と感じ方を重ねていく。それが、いまのところいちばん正直な香りの伝え方だと考えています。
分子1つの香水と、それを組み込んだ香水
「混ぜると変わる」を自分の鼻で試すなら、エセントリック モレキュールの2本が手がかりになります。モレキュール 01は、イソ E スーパーという分子1つだけを薄めた香水。エセントリック 01は、同じ分子を中心に、ライムやピンクペッパー、アイリス、インセンスなどを組み合わせた香りです。並べて嗅ぐと、同じ分子が混ぜ方でどう表情を変えるかがわかります。
まとめ
- 人の嗅覚受容体は約400種類で、匂いは受容体の組み合わせとして表される
- 同じ分子でも濃さで香りの質が変わることがある
- 混ざった匂いの成分を見分けられるのは3〜4種類が限界。強さをそろえた約30成分では、どれも似た匂いになる
- 鏡に映した形のカルボンはスペアミントとキャラウェイ。分子の形から匂いを予測しにくい
- 受容体の遺伝子や言葉で感じ方が変わる。AI の匂いの地図も、濃さ・混合・個人差はまだ扱えていない
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出典(21)
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