乳香(フランキンセンス) ソマリアとオマーン、白い涙の道
教会や寺院で焚かれる香、そして香水のインセンスノート。その中心にあるのが乳香です。乾いた岩山に立つ小さな木の幹に傷をつけると、ミルクのような白い樹脂がにじみ出て、空気にふれて固まります。この「涙」が、何千年も海と砂漠を越えて運ばれてきました。
2026.10.22 · 5分で読めます

幹ににじむ白い涙
乳香は、カンラン科ボスウェリア属の木から取れる樹脂です。英語のフランキンセンス(frankincense)は古いフランス語の franc encens(上質な香)から。フランス語の franc には「本物の、上質な」という意味がありました。もうひとつの呼び名オリバナムについては、「白」を意味する言葉や、香料の道が通ったレバノン山(ギリシア語で Libanos)と結びつける説明があります。アラビア語では al-lubān、ソマリ語では foox と呼ばれます。
木は8〜10年ほど育つと樹脂を出しはじめます。樹皮に切り込みを入れると、乳白色の樹脂がにじみ出し、空気にふれて固まります。収穫のための傷入れは年に2〜3回。最後の採取で得られる粒は芳香成分が多く、もっとも上質とされます。一般に、不透明な樹脂ほど品質がよいとされています。
乳香ができるまで
- 01傷をつける幹の樹皮に切り込みを入れる
- 02にじむミルクのような白い樹脂が出てくる
- 03固まる空気にふれて涙のような粒に
- 04集める年に2〜3回。最後の採取がもっとも上質とされる
香水に使われる乳香の精油は、この樹脂を水蒸気蒸留してつくります。主な成分はα-ピネン、リモネン、β-ピネンなどのモノテルペンやセスキテルペンです。その香りは「テルペンのような、インセンス、ペッパー、スパイシー、古い木、松、樹脂、グリーン」と表現されます。明るさと静けさが同居する、あの独特の香りです。
ソマリアとオマーン
いま、世界の乳香の90%はアフリカの角、とくにソマリアとエチオピアの国境地帯で採れるとされます。ソマリアではバリ州とサナーグ州が産地で、海岸と平行に走るカル・マドウ山地や、東のカルカール山地などの崖に木が育ちます。
一方、アラビア半島では、オマーン南部のドファール地方、港町サラーラの北に木が自生しています。主に香水や香に使われるボスウェリア・サクラは、高さ2〜8mほどの落葉樹で、紙のようにはがれる樹皮を持ち、標高1,200mまでの岩がちな斜面に、主に石灰質の土壌で育ちます。砂漠とドファールの山並みが出会う、霧のかかる細い帯では、木はとてもゆっくり育ち、大粒の上質な樹脂を出すといわれます。
乳香を生む主なボスウェリア
| 種 | 主な産地 | メモ |
|---|---|---|
| ボスウェリア・サクラ | オマーン、イエメン、ソマリア、エチオピア | B. carteri は1980年代に同じ種とされた |
| ボスウェリア・フレレアナ | ソマリア北部 | |
| ボスウェリア・パピリフェラ | エチオピア、エリトリア、スーダン | 世界の生産量の約3分の2 |
| ボスウェリア・セラタ | インド |
乳香の産地と交易の港
- ドファール(サラーラ) オマーン。ボスウェリア・サクラ
- コール・ロリ(スムフラム) 古代の乳香の港
- バリ州 ソマリア北東部の産地
- サナーグ州 ソマリア。カル・マドウの山地
- エチオピア ボスウェリア・パピリフェラ
ファラオと三博士
乳香の交易は、紀元前3千年紀のエジプトにまでさかのぼります。エジプトの人々は香料を求めて「プント」と呼ばれる南の国へ船を出しました。ハトシェプスト女王の葬祭殿に残る「プントの列柱」には、その遠征が描かれています。紀元前1500年ごろの医学文書『エーベルス・パピルス』にも乳香が登場します。
旧約聖書『出エジプト記』(30章34〜38節)では、聖なる香の材料のひとつとして乳香が挙げられています。新約聖書では、東方の三博士が幼いイエスに黄金・乳香・没薬を贈りました。乳香と並んで語られるミルラ(没薬)も、同じカンラン科の木の樹脂です。
ギリシアのヘロドトスやローマのプリニウスも乳香について書き残しています。南アラビアの乳香は、遠く中国まで運ばれました。13世紀の中国の税関の役人、趙汝适は、「乳香」がムルバート、シフル、ドファールの遠い山から来ること、幹を斧で刻むと樹脂が流れ出して固まることを書き残しています。日本語でもこの「乳香」という名前がそのまま使われています。
オマーンでは、乳香の交易で栄えた古代の港スムフラム(いまのコール・ロリ)やアル・バリード、隊商のオアシスの跡、そして乳香の木そのものが、2000年にユネスコの世界遺産になりました。当初の名前は「乳香の道」、2005年からは「乳香の土地」と呼ばれています。
乳香の年表
前3千年紀
エジプトがプントとの交易で香料を求める
前1500年ごろ
『エーベルス・パピルス』に乳香
1世紀
プリニウスが乳香について記す
13世紀
趙汝适がドファールなどの乳香を記録
2000
オマーンの遺跡群がユネスコ世界遺産に
2005
名称が「乳香の土地」に
木を休ませるということ
需要が増えるにつれ、ボスウェリアの木は傷を負いすぎるようになりました。何度も樹脂を採られた木の種子は、発芽率が16%にとどまり、樹脂を採っていない木(80%以上)を大きく下回るという報告があります。1998年には国際自然保護連合(IUCN)が、ボスウェリア・サクラを「準絶滅危惧」として警告しました。山火事や放牧、カミキリムシの被害も、木を減らしています。
生産量の多いボスウェリア・パピリフェラについては、2019年の論文が、今後20年で生産量が半分に減ると予測しています。論文は、ボスウェリアのすべての種が生息地の減少と採りすぎにさらされていると警告しています。乳香の香りの陰には、木を休ませながら採るという、いまも続く課題があります。
明るいニュースもあります。乳香の木はかつてユダの荒野にも育っていましたが、1,500年前に姿を消していました。2012年12月、イスラエルのケトゥラにボスウェリア・サクラがふたたび植えられています。
香水では、乳香はインセンスノートの中心として、ミルラやラブダナム、スモークと組み合わされることがよくあります。古代の儀式の香りは、いまも瓶の中で静かに煙をあげています(古代の香り)。
乳香・インセンスを名前に掲げる香水
まとめ
- 乳香はボスウェリアの木の樹脂。傷をつけると白い樹脂がにじむ
- 世界の約9割がアフリカの角から。オマーンのドファールも名産地
- 古代エジプトのプント遠征から、聖書、中国の記録まで
- 採りすぎで木が弱り、IUCN で準絶滅危惧に







